平成に入ると今までの絶好調の日本経済も落ち込み
いわゆるバブル崩壊がやってきました
ただ我々住宅関連業界は、徐々に仕事が減少しては来ましたが
極端にドーンと仕事が無くなってた訳ではありません
ですから当時は、正直これがバブル崩壊だといった実感は
正直あまり感じませんでした
株式投資、不動産投資、リゾート、ゴルフ場造成などは
一気に冷え込んだように思います
実態経済ではないお金が泡のように膨らみ過ぎて
爆発してしまったのです 一気に下落してしまいました
やはり世の中、楽して儲けることはなかなか難しく、何時までも
長続きすることはあり得ません
楽してお金を動かして、儲けようとした人達は大きな損失を出して
会社倒産したところも数多く出て、天国から地獄といった感じでした
そんな中でも住宅関連業界は団塊の世代を中心に、住宅が欲しい
人達が沢山いたから忙しかったので、バブルだから忙しい訳では
なかったように思います
ただ、景気が良かったのでその時期に住宅着工が多かったのは
事実でした
ピークは過ぎて、新築着工棟数は減ったものの、住宅を建てる人は
極端に減ったわけではありません
健全経営をしていれば、売上は確かに減少するものの、屋台骨まで
崩れることはなかった様に思います
平成3年3月、(株)福寿園緑化建設より、のれん分けのような形で
(株)グリーンケアを設立致しました
その経緯をお話しいたします
昭和62年頃から、福寿園緑化建設は外構工事、造園工事をやりながら
公共土木、公共緑化にも取り組み始めました
業務内容強化の為、民間、公共と2本柱で行く方向を目指しました
公共担当社長、外構造園担当は専務の私でした
公共工事をやり始めた当初は、全く未経験の上に新参者といった
立場なので、儲かる様な仕事は受注出来なくて、やる仕事、やる仕事
全て赤字で、外構工事の利益で赤字を補填しているような状況
でした その流れは暫らく続きました
でも、いつかは認めて貰える、そういった信念でやり続けました
公共工事に取り組んで2年過ぎたあたりからようやく役所、業者間にも
認められるようになり、数千万といった工事も受注出来る様になり公共工事の
柱も堅実に育ってきました
やっと、黒字が出る様になって来たのです
しかしながら、公共工事と民間外構工事との両立はなかなか難しく
同じ工事でもその内容は全く異なるのです
民間と役所、土木工事と外構工事、公共緑化と一般造園工事
発注、現場管理、施工、書類等等 に於いて進め方が違うので
中々大変なんです
両部門が伸びれば伸びるほど、その両立は大変になってきました
このままで果たしていいのだろうか、そう思い始めました
そのあたりから、私自身、外構(エクステリア)、造園(ガーデン)の
本格的な専門会社を立ち上げたい
一生一回の人生、自分で会社を興して、社長としてチャレンジしたい
そんな思いが強くなって来ました
しかしながら今の立場は、福寿園緑化建設の専務として、社長と共に
スタッフと共に力を合わせて会社を成長させねばならない
でも、エクステリア、ガーデン専門店をこの手で立ち上げたい
何とか夢の実現に向けて行動を起こしたい
ただそのことで福寿園に迷惑をかけることがあってはならない
未だその時期では無いのか やはりそれは無理な事なのか
悩みに、悩み、結論の出せない日が続きました
意を決して同級生であり、女房の兄貴であり、親友である社長に
思いを打ち明けました
自分でエクステリア、ガーデン専門店を立ち上げたい
一般のお客様に対応できる専門店を作りたい
そう思っています
でもその時期は福寿園緑化建設に迷惑の掛からない時期
社長がこの時期なら、独立されても困らない
そう思った時期で構わないので是非やらせて欲しい
その時期が来るまでこれまで以上、会社の為に頑張るし
更新を育てて、バトンタッチできる体制を作ります
そう話しました
「専務には本当に頑張ってここまで福寿園を引っ張って貰った
福寿園が現在あるのは、専務がここまで頑張ってくれたからだ
本当に有難い
このまま二人力を合わせてこれからもやって行きたい思いだ
しかし専務には専務の夢があるし、人生がある
独立を応援するから是非頑張って欲しい
只、今直ぐ会社を離れられると福寿園緑化建設が大変になってしまう
少し時間を貰って専務が抜けてもいいような体制を作りたい
必ず専務の夢が実現出来る様に協力するので、時間が欲しい」
そう言って了承して貰えました
グリーンケア誕生の芽が出てきました
グリーンケア誕生(その時はまだ社名は考えていません)の
為に、福寿園緑化建設での働きはそれまで以上に
正に粉骨砕身で猛烈に働きました
グリーンケア誕生までの経緯を綴りました
此処からガーデン、エクステリアの未来に触れて行きます